« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009/11/28

フィリピン現地新聞の電子版

日本のメディアにはほとんど取り上げられていないようだが、ミンダナオ島の大虐殺事件は、犠牲者が60名近くに上り、その拷問方法や殺害方法の残虐さが徐々に明らかにされている。政治家の妻と姉妹、家族、親族、支持者たちが、来年の知事選に備え、選挙管理委員会への立候補届出に向かう途中、約100名の武装集団に車列を止められ、2名の弁護士と、取材同行していた40名近くのマスコミ関係者とともに、拷問され、殺害されたうえ、埋められたというものだ。

当地の新聞によれば、女性たちは多くが陵辱され、政治家の妻らはさらに、目を潰され、臓器をえぐり取られており、2人の姉妹はともに妊婦だったという。斬首された者も多く、車やトラックに何度も轢かれたり、生きながらにして車ごとショベルカー(ユンボ)に潰され、轢かれ、埋められた人々もあったという。同島で多数派の宗教では女性には危害を加えないという教えがあることから妻と姉妹を代理人に送ったということだが、ジャーナリストにとって世界で最も危険な国とされるフィリピンにして歴史上例を見ない残酷な大虐殺事件に、その望みはかなうことがなかった。

まるで17世紀、あるいは少なくとも大戦中から飛び出てきたようなこの凄惨な事件に、多くのフィリピン人は言葉を失い、心を痛めている。少しでも早い快復を祈るものだが、来年が、例年500名は暗殺されるという、大統領から村会議員までの総選挙の年であることを思うと心が重い。

ところで、ご存じの方も多いとは思うが、フィリピンの現地新聞にしては珍しくSun Star紙が良質の電子版を提供しているのでご紹介しておきたい。同紙のウェブサイトからは、Bacolod、Baguio、Cagayan de Oro、Cebu、Davao、General Santos、Iloilo、Manila、Pampanga、Pangasinan、Zamboangaの各地方版がリンクされているが、電子版が利用できるのは、残念ながらCebu版だけだ。

購読料は、1日のみが1ドル、1か月3.9ドル、半年19.9ドル、年間29.9ドルとなっている。とりあえず1か月の講読を試してみることにしたが、企業としての設備投資の限界なのだろうか、バックナンバーの閲覧が可能なのは1週間分のみとなっているようだ。道端で買えば12ペソほどのものなので、1日のみで1ドル(現時点で約48ペソ)というのは割高には違いないが、家にいながらにして利用できて、しかも次のような付加機能があって年間29.9ドル(1日分約4ペソ)というのは、特にフィリピン関係のブロガーの方々にはお得だろう。

トップ画面は次のようなもの。右側に縮小版のサムネイルがあるのが親切だ。各ページはPDF(サンプルはこちら:ここでは少し解像度を落としてある)でダウンロードし、手元に保存することができるようになっている。

日本の産経新聞や日刊ゲンダイでも同様のサービスはあるが、日刊ゲンダイの場合、全体をダウンロードして解凍するシステムになっていることから、ファイルサイズを落とすために広告ページは削除されている。このSun Star紙は、広告ページ、求人・「売ります/買います」などのページも、必要に応じて閲覧、ダウンロードできるようになっているので、読者にとっては、選択肢の多い親切な設計になっている。とりわけ、日本から旅行に訪れる方々には、リゾート施設などの広告はありがたいものだろう。

Ss_cebu_main_operation_2

各ページの記事は、このままではフォントが小さくて読みにくいが、見出しを見て、興味のある記事をクリックすると、次の画像のようにその記事だけがポップアップするようになっている。そこからさらに、PDF版で閲覧したり、クリップしたり、ブログに引用したりもできるようになっている。

Ss_cebu_article_reading

フィリピンをさらによく知るために、このようなサービスを利用してみるというのはいかがだろうか。惨劇に多くの仲間を失った在比ジャーナリストたちの励みにもなることだろう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/26

謎の構造物

ミンダナオ島では、来年の知事選に立候補を表明していた政治家の夫人、親戚、一緒に車で同行していたジャーナリストや政府関係者ら、50名以上(半数以上は女性)の人々が、何者かの私兵と目される者どもに、陵辱され、斬首され、銃殺されて埋められるという虐殺事件が起こった。詳細はまた、現地新聞の報道などを中心にご報告しますが、残されたご遺族の慰めをお祈り申し上げます。


家の近所を歩いていてふと見つけたものが下の写真だ。小さな小屋のようなものが軒下の高さまで埋まった形になっている。え、と一瞬固まるが、先日の台風によるものではない。なにせ、この地面が、こちらが立っている道路の高さでもあるのだから。

道路と敷地との間にはフェンスが張ってあり、中には入れない。お墓にしては奥行きが長いような気がするし、資材置き場にしては、葺いた屋根など、凝った作りになっている。近所に急に出現した謎の構造物、邪馬台国はルソン島にまでその勢力を誇っていたのだろうか。

 

Img_0042

 

blog_ranking_banner.png ブログランキング【ブログの惑星】 人気ブログランキング【ブログの殿堂】
(クリックで応援していただけると励まされます)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/18

台風17号被災地レポート:ベンゲット州イトゴン郡ロアカン町

今日は、ベンゲット州イトゴン郡ロアカン町(Loacan, Itogon, Benguet)にある台風17号による被災地を訪問してきた。空港のあるバギオ市ルアカン町(Luakan, Baguio City)とは異なり、ベンゲット州南部の金鉱地帯の町の一つだ。バギオ市の中心街からは約1時間ほどの距離だが、私たちの学校で私が担当している現地奉仕活動部門が12月に、地元の同じグループの諸教会との協力のもと、この町で内科と歯科の無料検診と医薬品配布のイベントを計画しており、その下見に赴いたわけだ。

この町では、犠牲者は8名に抑えられた。悲しい数字ながらも、これがいかに最小限のものであるかは、全半壊の被災家屋約150戸という数字を見ればわかるだろう。このブログで既にご紹介しているラ・トリニダード郡プギス町では、全半壊の被災家屋数約40戸に対し、80名以上の犠牲者を出しているからだ。プギスの公式をそのまま適用するならば、300名以上の犠牲者を出す可能性すらあったことになる。

犠牲者が最小限に抑えられた理由は、既に先の記事でも触れているように、17号以前の台風の際に、地滑りの危険があるという警告がなされ、17号が襲った際には、住民たちが既に親戚宅などに避難していたからだという。ただし、交通の便が良く、多くの犠牲者が出たプギス町に政府、NGO、諸団体の支援が集中したのに対し、ただでさえ道が悪くアクセスの悪いこのイトゴン郡ロアカン村は、容易に忘れられ、幹線道路が寸断されたまま、約700家族が、支援物資など望むべくもなく、何週間も孤立したのだという。そして、もちろん、被災家屋約150戸への再建ないし移転支援のメドは全く立っていない。

幸いなことに、会場となる小学校には、子どもたちの明るい声が弾けていた。私たちは、子どもたちに楽しんでもらえるためのプログラムも用意している。私たちのもたらすサービスが、少しでも被災者の皆さんの慰めと励ましになれば、と願っているし、私たちもまた、被災者の皆さんの深い忍耐と静かな強さから励ましをいただくことができればと願っている。

帰りの道からは、私たちの学校と、既にご報告している、私の親しい友人が亡くなった地滑りの跡が見えた。何の前触れもなく急に視界に飛び込んでくるのは、まだまだいやなものだ。

 

09111801
ルアカン町最大の土砂崩れの跡地。教会が一つ、だめになってしまったが、
人命が失われなかったのは不幸中の幸いだった。

 

09111802
崩壊した教会。大きな岩が無数に散乱していた。

 

09111803
約130戸が全半壊し、5名の犠牲者を出したという
ルネタ・アンタモック村。再建のメドは立っていない。

 

09111804
はるか尾根の上に見えた私たちの学校(黄色で囲んだ部分)と
友人一家が亡くなった現場(赤)。その間には、私が、
ささやかながら生き埋めになりそうになった現場も見える(青)

 

09111805
土砂崩れや地滑りだけではあまりにせつないので、私のオフィスから
見た昨日の朝焼けをどうぞ。昨日は雲が多い朝だった。

 

09111806
日の出の時間が近づくと大気温が上昇して、雲が荒れ始める。

 

09111807
日の出。

 

09111808
拡大してみる。少し太陽の円が崩れてぼやけてしまったのが残念。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/11

久々の朝焼け

久々の朝焼けといっても、久々に晴れたというわけではない。ふだんは朝焼けとともに寝床に潜り込むような暮らしをしている、およそフィリピン人一般のライフスタイルにそぐわない私が、久々に見たというだけの話だ。

昨日は、夜11時頃にソファーでそのまま眠ってしまったので朝4時半に目が覚めた。それで、そのままオフィスに行ってみたというわけだ。もちろん、聖書を読んでお祈りをするためである。時々、こういう、思いついたように真面目な朝がある。尻を叩かれている気分だ。家もオフィスも、学校の敷地内、徒歩5分ほどの距離にある。

とはいえ、期待はあった。カメラを持って行ったのが大きな過ちだった。お祈りもおざなりに、しばらくは久々の風景に心を奪われてしまった。否、体よく言えば、自然の美しさに神を讃えたという次第だ。

美しいものを見ると恨めしく思ってしまうのは最近の悪い癖だが、今日は、四の五の言わず、自然の恵みを純粋に味わうことにした。オフィスの窓では飽きたらず、屋上に出てみる。朝、太陽の光を浴びるのは体内時計をリセットするのに良いというが、わかる気がする。

荒々しい来訪者どもに傷だらけにされた北ルソンの山々は、元の優しい表情を取り戻した気がする。願わくば、人々の心もまた、一日も早く癒されて欲しいものだが、それは無理な話というものだ。少しずつ進んでいく、そして、少しずつ事を進めていくしかない。

 

Img_0030
4時半頃。明けの明星、金星が輝く。

(この照度では、このブログで標準としている1024ピクセルに
リサイズしようとすると色合いが変わってしまうので、リンク先の写真は、
撮影したサイズ、2048ピクセルのままにしてある)

 

Img_0038
5時頃。清少納言の言う「山の端(は)」に寄ってみる。
3層の尾根が重なる。かすかに見える3つめの尾根を越えると、
ようやくヌエバ・ビスカヤ州に入る。

 

Img_0040
今日は、幸いにして雲海もきれいだった。
山、雲、朝焼け、金星 - 千両役者の勢揃いだ。

 

Img_0041
雲海に寄ってみる。

 

Img_0044
とはいえ、NHKでよく紹介している北アルプスの雲海のような
高い山々ではない。夜中のうちに凝結した水蒸気が盆地に戯れているだけだ。
私たちには「雲海」でも村々の人々にはただの霧。
洗濯物が干せない迷惑な代物なのだ。

 

Img_0045
今朝はまさに快晴。被災した人々の心も、今日ぐらいは
少し晴れて欲しいものだ。

 

blog_ranking_banner.png ブログランキング【ブログの惑星】 人気ブログランキング【ブログの殿堂】
(クリックで応援していただけると励まされます)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/10

大戦の激戦地ブッサン峠とセルバンテス

台風17号被災地の支援活動は継続している。今日も、私たちの学校から、12月上旬に、ベンゲット州イトゴン郡の一大被災地ルアカン町(バギオ空港のあるバギオ市ルアカン町とは別の地域)で無料医療プログラムを提供するため、窓口となる現地教会の牧師夫婦と打ち合わせをした。

被災した家族数にして実に58家族という。被災家屋30数軒にして80名以上の犠牲者を出したプギス町と異なるのは、イトゴン郡ルアカン町の場合、台風16号か、それ以前のものか、17号以前の台風で既に大規模な地滑りの危険性が指摘されたため、ほとんどの家庭が、地域の避難所なり、近隣の親戚宅なりに避難していたからだという。

つまり、プギス以上に規模の大きな地滑りが起こった時点で村人たちは既にそこにおらず、建物だけが被害に遭う形になったということだ。今頃になって、環境自然資源庁(Department of Environment and Natural Resources)からの退去勧告が2005年の時点で出ていたことがしたり顔で指摘されているプギス町リトル・キブガン村とは、不幸中の幸いと言っていいものか、対照的な結果となったわけだ。

イトゴン郡ルアカン町については、来週火曜日に下見に行くことになったので、あらためてご紹介するとして、今日は、先日の400kmの旅で通ったセルバンテス(イロコスール州セルバンテス郡)と、その西側の山々にあるブッサン峠の様子をご紹介したい。

 

ブッサン峠(Bessang Pass)は、先の大戦の最後の激戦地の一つとされる。セルバンテスからスヨ(イロコスール州スヨ郡)、タグディン(イロコスール州タグディン郡)に抜ける国道4号線(通称:ブッサン・ロード)は、セルバンテス-スヨ間で厳しい山々を越える。この峠がブッサン峠だ。

私がキリスト教の宣教師として支援している教会の一つが、このブッサン峠の属する山系の、セルバンテス側の深い山村にある。セルバンテスの中心街の人々も眉をひそめるほど、厳しい上りの続く山村だ。車では行けない。

以前は舗装されていなかったブッサン・ロードは、それはそれはひどい道だった。ミニバスと呼ばれる、およそ「家畜運搬車」としか呼べない代物に非人道的に詰め込まれ、切り立った崖を夜の深い暗闇に感じながらガタンガタンと登り、体中を周囲にゴツンゴツンと叩きつけられながら下る道行きだった。リュックサックを体の前で抱いたまま、眠るに眠れない道をただ耐えたものだ。

まだ、ハルセマ・ハイウェイすら舗装されていない頃のことだ。土曜日の朝4時にバギオの家を出る。足が無いのでふもとの幹線道路まで小一時間、歩いて下る。なんとか5時半のバスに乗ると午後1時にセルバンテスに着く。村まで登ると既に夕方6時だ。大きなウシガエルの丸ゆではいかめしい顔つきに威嚇されながら、同じく清流のウナギなど、いつも土地の名産(?)でもてなしてくれる。

そして、翌日、日曜日の朝に村の小さな教会で礼拝を導き、昼食後、また5時間ほどかけてセルバンテスに下りてくる。夕方6時のミニバスに乗れば、サンフェルナンド(サンフェルナンド市(ラ・ウニオン郡))には夜中の1時に着くという案配だ。運良くバギオ行きの最終バスに乗れればしめたもの、道端のベンチにゴキブリやヤモリを避けて寝そべり、朝4時まで時間をつぶせば、バギオ行きの始発のミニバスに乗れるという強行軍だった。週日は学生をしながら教師もし、という日々だったが、40代になった今は昔、もはや望めぬ無鉄砲さだ。

 

そういうわけで、いつもは街灯もない暗闇をゴトゴトと走り抜けるだけだったブッサン峠を、今回、- 実に2回目のことだ - 明るい時間帯に通ることになった。しかも、時は流れ、道は完全に舗装されている。ちょっとした六甲山ハイウェイのようだ。しかも、友人の運転する車。かねてからゆっくり見てみたいと思っていた大戦の記念碑(国立公園になっている)で、少し止まってもらった。

碑文を読むのも初めてだ。1945年6月14日に終結した決戦では3,500名の人々が犠牲になったとある。ネットで調べてみる限り、アメリカ兵の犠牲者は600名というので日本兵も含めた数とも読めるのだが、「自由と平和を求めて戦った」という文言に日本兵が含まれるのだろうか。フィリピンのこんな山奥の碑文にそれほどの高尚な思想が謳われているのかはわからない。

いずれにせよ、この戦いで負けたことで山下奉文(ともゆき)大将の降伏が早まったとされているが(大将本人はイフガオ州キヤガン郡で拘束された)、何のことはない、大将がバギオで正式に降伏したのは9月3日、既に大日本帝国としては無条件降伏をした8月15日以降のことだ。

ブッサン峠は、マニラから訪ねるにはあまりに遠く、また、他にこれといって見るものも無い、寂しい場所だ。こちらのブログの写真で満足できるなら、あえてお勧めする場所ではない。ただ、ブッサン山系の切り立った山肌に兵士たちの苦難と今日の平和を思うのも素晴らしいことだと思う。四方を山々に囲まれ、広い河岸段丘が美しいセルバンテス町の風を味わうのも一興。そんなセルバンテスは、私の愛するフィリピンの一つだ。

 

020
記念公園の様子。地元の住民によるのだろう、
手入れはきれいにされている。

 

024
碑文。

 

019
セルバンテス郡とスヨ郡の郡境。傾いているのはご愛敬か。

 

012
切り立つブッサン山系の尾根。

 

014
戦争中はもっと木が生えていたのかどうか。
今も元日本兵が息を潜めているような気になる。

 

P2140007
盆地の町セルバンテス町を囲む山々。
北方面、イロコスール州キリノ郡を望む。

 

P2140015
これを撮った2月の午後には雲の間に虹が出ていた。

 

P2140018
こちらが西方面、ブッサン山系。

 

P2140019
こちらは東方面、マウンテン・プロビンス州タッジャン郡を望む。
東南に登っていくとベンゲット州マンカヤン郡、
ブギアス郡(アバタン町) へと続く。

 

blog_ranking_banner.png ブログランキング【ブログの惑星】 人気ブログランキング【ブログの殿堂】
(クリックで応援していただけると励まされます)

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/11/07

被災した大学生と、プギスの夕闇と

一昨日の記事に書いたように、昨日は午後からラ・トリニダードに行き、台風17号で両親と弟を亡くした大学生Mくんと会ってきた。「調子はどう?」と聞くのも愚かしい気がして「よく眠れてる?」と聞くと、ストレートにも「まだ全然眠れないんです……」という答え。Mくんの牧師によれば、この間も教会を訪ねてきて、ただ泣き崩れていたという。

とりあえず、私からは台風や家族のことにはできるだけ触れないようにし、大学生活についての具体的なことを聞く。今年5月まで2年間、コンピュータ・テクノロジーの課程に在籍していたが、来年6月まで少し働いた後、ホテル・レストラン経営の専攻に移りたいのだという。具体的な学費や教材費、交通費、お小遣いなどの話を聞く。

一緒に生き残った弟二人は、パンガシナン州の叔父さん夫妻に預けられ、そこで学校に通っている。彼一人が、ラ・トリニダードの別の叔父さん夫妻の家からバギオの大学に通うことになる。この教会には、一家で遠い町から真面目に通ってきていたのだという。おとなしい好青年なだけに気の毒に思う。なんとか支援ができる方向で具体化できればと思っている。

 

帰りはちょうど夕暮れの時間帯になった。一昨日の記事にプギスの夕焼けのことについて書いたことを思い出し、KM4でジプニーを降りて再び足を伸ばしてみることにする。一昨日の記事にも写真を掲載している白い家はついに解体されていた。プギス被災のシンボルの観を呈していた家だ。ちょうど、土地のボランティアの人々が仕事を終え、家路に着く頃だった。

関係者以外立ち入り禁止というわけでもなく、誰も声を掛けてこないのもありがたい。救援センターとなっている私たちのグループの教会が目と鼻の先なので、いかにも視察に立ち寄った外国人宣教師に見えるのかもしれない。すっかり乾いて固まった土の上に腰を下ろし、犠牲者と被災者の方々に思いを馳せ、祈る。

なんだか悼む人みたいだ - そう思いながら、暮れていく時をただ眺め、静寂に耳を澄ます。バスケットボールの遠いバウンド音と若者たちの声とが少し心を慰めてくれる。停電の暗闇の夜10時半、山が一挙に崩落して流れ、人々が埋まったという光景は、どれだけ思い巡らしてもなかなか想像できない。

ただ、腰を下ろした足元の土肌に松の木の断片が見える。この土はあの山からここまで流れてきたのだと悟り、混乱する。横に見えるコンクリートの壁が、実は残った1階部分の残骸だとわかり、泥流の勢い、重さ、深さが少し想像できて鳥肌が立つ。

結局、昨日は夕焼けは見られなかった。完全な闇に包まれる前に少し、白い家のあった辺りに立ち入ってみる。コンクリートは既に除去され、台風というよりは解体の際の重機によるのだろう、ねじれ曲がった鉄骨がそのまま放置されている。向こう側には、親戚たちによるのだろう、亡くなった住人たちの遺品が集められている。

踏み込んだ足場が不意に緩い泥になってぞっとする。この辺りはまだまだ、掘り起こされたばかりで土が乾いていない。そればかりか、とにかく臭い。水が腐っているというのもあるだろうし、なにしろ30戸以上の家が一気に崩れ、流され、埋まったのだ。30戸分のトイレも一緒に流れ出し、ここの土には混ざっている。つい最近まで、傷んだ遺体がここそこで見つかっていたということもあるかもしれない。

一部のイゴロット族の伝統的な葬儀では、死者に語りかける、あるいは日本で香典にあたる寸志について、くれた人と金額を死者に報告するという習慣がある。一昨日も教会の若い牧師が言っていた。最近の葬儀のこと、3週間後にようやく発見された方の葬儀だ。讃美歌をリードしていて激しく嘔吐しそうになった。見ると、それだけはやめましょうねと決めていたのに、遺族が遺体袋のジッパーを開けて亡くなった方に何やら語りかけていた……。そのような姿で葬られる犠牲者も哀しいが、それでも語りかけずにはいられない遺族も哀しい。

マウンテン・プロビンス州のある村では、何日もかけて葬儀をする。そして、ほぼ垂直に切り立った急斜面を、棺を墓地まで運ぶ。棺からしたたる汚液を浴びることが祝福なのだという。特定文化の世界観に美学というものが含まれるならば、臭いというものに対する距離もまた、その文化の世界観に深く根ざしているものなのかもしれない。生理的には当然臭い。耐えられないほど臭い。しかし、それを耐えてしまえる装置が、文化の一部として組み込まれており、今もなお継承されているのかもしれない。

 

プギスを後にし、ジプニーに乗る。以前ならすぐに頭に来ていたマナーの悪い客も、大小数多くの棺を見てきた今、命があってよかったねと思えるから不思議だ。「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」という歌*があったが、美しい夕焼けのありがたみと同じだ。そんな優しさなら身につけたくはない。でも、それも人生というものの、残酷な一面なのだろう。

 

(*「贈る言葉」 作詞:武田鉄矢)

 

Img_6091
Mくん(右)と牧師先生(左)。中央はMくんのいとこ。
誰か一緒にいてくれればいい。

 

Img_6103
急な坂道からは、ベンゲット州西部の丘陵地帯が望めた。

 

Img_6112
しばらく半旗だったラ・トリニダード町役場の国旗も、
今日は力強くはためいていた。

 

Img_6116
遺体収容所、避難施設となったプギス小学校。
右手、白い家の奥に、崩落した山肌が見える。
左手の十字架は私たちのグループの教会。

 

Img_6117
白い家の解体作業がほぼ終了した現場。奥の山が大きく崩落し、
ここまで流れてきたわけだ。土を少し触れば、岩や木はもとより、
衣類や家庭用品にぶつかる。

 

Img_6119
夕焼けの代わりに赤く光っていた一筋の雲。

 

Img_6122
コンクリートが除去された柱の鉄骨。遺族がリサイクルに出すのだろう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/05

長期にわたる台風17号被災者のケア

北ルソンでは、1か月ほど続いた台風と熱帯低気圧の連続的な襲来がようやく収まり、天候的には落ち着きつつある。各地の泥は徐々に乾き、土砂崩れの爪跡は、かえって荒涼とした観を呈しつつある。霧が晴れて見通しが良くなったはいいが、山々の肌がまだらに削られた景色は哀しい。

今日は、80名以上の犠牲者を出したラ・トリニダード郡プギス町にある私たちのグループの教会に、少しまた、救援物資を届けてきた。60戸とも言われる被災家庭のための救援センターの一つとして、教会を挙げてがんばっている。教会としても、教会員と家族、親族を合わせると40名近くの人々を失った。

来週は、アメリカの私たちのグループの救援チームが大規模で訪問し、無料での医療・物資提供プログラムを提供するとともに、世界各地の戦場や災害被災地を専門にする心理学者が来て、教会のリーダーや希望する教会員を対象にPTSDに対処するためのカウンセリング・セミナーを開催することになっている。

このようなコネクションのある場所はまだ良い。大変なのは逆に被害が「小規模」(犠牲者の数をもって大小をつけるのは嫌なことだ)だった地域、そういったチームの入っていけない、道路が寸断され、いまだに孤立している地域だ。この教会は、建物には被害が無く、不幸中の幸いとして、センター的な役割を果たせている。

私の務めている学校としては、光の当たっていない地域や家庭をさらに探り、ささやかでもできることをしていきたいと思っている。明日は、両親を亡くした大学生と会い、奨学金提供などの可能性を探る予定にしている。

 

018
私たちの学校から見える幹線道路の土砂崩れの痕。
左側の土砂崩れ現場では、私も股下まで泥に埋まり、
下手をすると崖から押し落とされるところだった。

 

016
既に何度も取り上げている、親しい友人一家が被災した現場。
霧が晴れ、あらためて私たちの学校からすぐ近いのを知り、驚いた。
ただし、彼女の家のあった場所そのものは、はるか崖の下なので、
この写真では手前の家々の尾根に隠れて見えない。

 

061
逆に、その幹線道路アンブックラオ・ロードから見た
私たちの学校のキャンパス。同じ土砂崩れはここで起こっても
おかしくはなかった。あらためて怖い。

 

012
昨日の夕焼け。美しさに慰められるが、やはりどうしても
恨めしい。 嵐がなければありがたみはわからないが、そんな
ありがたみならばわからなくてもいい。ちなみに、西の山々を
背にするプギスも、実は美しい夕焼けで知られた場所なのだ。

 

025
プギスの私たちのグループの教会。

 

019
届けた調理器具とともに。中央は私のアメリカ人上司。
両端はこの教会の若い副牧師二人。左手前の若者が
ちょうど救援物資を取りに来た被災者の一人。

 

020
この教会では地域の全被災家庭の被災状況と生存者の職業、
経済状況をモニターし、フォロアップの参考にしている。
1番上、6番目、8番目の家庭は、いずれも奥さんと子どもたちが
亡くなり、ご主人一人が生き残った。7番目の家庭も同様だ。
生き残ったのは他の町に嫁いでいる娘たちで、
被災した家では仕事に出ていた父親だけが生き残った。
ただ言葉を失う。

 

024
教会のすぐそばまでかなりの距離を、転がりながら流されてきた家。
窓からは助けを求める懐中電灯の光が何筋も見えていたという。
7名の遺体が見つかった。解体作業が進められている。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/11/01

配布される救援物資

仕事でベンゲット州アトック郡(Atok, Benguet)のある村を訪問してきた。日本人にとっては日本語FEP(今は入力支援システム?)のATOKを連想させる、親しみのある名前の地域だが、既に反町眞理子氏主宰のNGO「コルディリエラ・グリーン・ネットワーク(CGN)」のブログでもパスドン村の被害が伝えられているように、台風17号によって多くの人命と財産の失われた地域だ。

私の訪問した村は、バギオ市から約20km付近の山中にある村だが、ここには、けがこそ無かったものの、家の敷地の一部が崩れ、その家に住み続けては危険ということで、泣く泣く、村人の助けを借りて家を解体したという男性がいた。現在は、この村にある私たちのグループの教会で、独身の若い男性牧師と一緒に住んでいる。男性はこの教会のメンバーなので、行き場を失わずに済んだ。

この男性が、アトック郡の役場で救援物資をもらってきており、村人たちに見せていたので、私も一緒に見せてもらった。いくらかの現金に加えてもらってきていたのは、浄水に必要な一式、調理と食事に必要な一式、安眠に必要な一式。なかなかのセットで驚いた。ロータリー・クラブ寄贈のものが多かった。私たちの支援ではこれほどの高価なものはなかなかできない。ありがたいことだ。

なお、台風17号の被害の最新情報はCGNの最新記事に詳しい。行方不明者がまた50名近くもあり、これらの方々を合わせると犠牲者数は500名を超える。どこかに生きていて欲しい。

台風20号は、少なくとも北ルソンにとっては強風だけの台風で助かったが、フィリピン海沖には既にまた低気圧が勢いを増しつつ、ルソン島を窺っている。このような気象はいつまで続くのだろうか。

 

2009110106
家を失った男性の土地。柱の後を見るのがつらい。
よくぞ持ちこたえたものだ。なんとかなって欲しい。

 

031
水を浄化する錠剤。50錠か100錠入りが5箱ほど
支給されていた。1錠で15-20リットル分が浄化できる。

 

025
浄化用のビニール製容器。折りたたんで持ち運べる。ただ、
容器に対して薬がきついようで、できた水はかなり薬臭く、
また、苦かった。容器の天井に届くまで一杯に水を入れる
くらいのほうがいいようだ。

 

027
食器類。肝心のスプーンとフォークが無かったので、
ここはイゴロット族らしく手で食えってことだねと
みんなで楽しく笑う。この明るさが希望だ。

 

029
鍋もある。

 

028
毛布。ついているエンブレムはロータリー・クラブのものだ。

 

030
寝袋。

 

026
蚊帳もある。

 

017
そしてコーヒー豆。とは言っても、これは支給品ではなく、
この村の特産品。有機栽培によるベンゲット種だそうだ。

 

2009110104
台風一過の美しい夕焼け。やはり、あの台風、500名近くの
犠牲者の方々のことを思わざるにはいられない。この夕焼けが、
台風に襲われる前の夕焼けとつながっていてくれればいいのにと
どれほど思うことか。

 

2009110105
前夜も台風21号の風が激しく吹き荒れる夜だったが、おかげで、
雲一つ無い朝となった。奥の左手がカパガン(Kapangan)、
右手がキブガン(Kibungan)の山々。

手前の尾根の山肌があちこち剥げているのはいずれも、
台風17号による痛々しい土砂崩れの跡だ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »