« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008/10/16

友人が困っています

バギオにいらっしゃる日本人の方々には、それぞれに個性的で、またフィリピンを愛し、日本とフィリピンの方々の益となることを願って働いていらっしゃる方が多いのですが、環境保護NGO、Cordillera Green Network(CGN)を率いていらっしゃる反町眞理子さんもそのお一人です。

私は私で各地に仕事と責任があってなかなかお手伝いをすることができていないのですが、北ルソンの人々、とりわけ山岳民族のために重荷を負い、彼らと共に歩もうとしていらっしゃる姿にはいつも敬服しており、心の中で応援をさせていただいている方の一人です。

この反町さんのCGNのスタッフのお一人と、同じくCGNの奨学生が、出張先のカリンガ州の州都タブック(Tabuk, Kalinga)で交通事故に遭い、現在、入院しているとのことです。バギオの病院に移送しないことには治療もままならないということですが、保険も公的補助制度もないこの国のこと、費用が大きくかさんでしまうとのことです。

このブログも、フィリピンに関心を持ち、フィリピンを愛してくださっている多くの皆さんからご訪問をいただき、心から感謝しています。そのフィリピンを愛する皆さんのお力が必要とされています。詳細はCGNのブログの「スタッフの交通事故」「スタッフの事故 その後」にてご覧いただけます。皆さんの応援をなにとぞよろしくお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/10/12

戦う男のドゥパックス

地名にはその土地の歴史や言語が色濃く反映される。「バギオ」(Baguio)は広くフィリピン諸語で「嵐」(bagyo)だというし(Webster's Online Dictionary参照)、「ラ・トリニダード」(La Trinidad)はスペイン語のキリスト教用語で、世界史の教科書に出てくるかこないか、「三位(さんみ)一体」という意味だ。南イロコス州(Ilocos Sur)の「サンタ・クルス」(Sta. Cruz)もスペイン語からだが、これに至っては、いかにもな「聖なる十字架」という意味だ。

サンタ・クルスのような海岸沿いの町は、450年にわたるスペインの植民地支配を反映してスペイン語の地名が与えられていることが多いが、山間部を中心として地方都市に行くと現地語を反映した地名が多く残っている。

バギオ市のあるベンゲット州(Benguet)の州名の由来は、私の友人によれば、現在のラ・トリニダードにあった大きな池か沼に関するカンカナウイ語(Kankana-ey)ないしイバロイ語(Ibaloi, Iballoi)であったということだが、私の調査不足でそれ以上の資料にはまだ出会っていない。その東に位置するヌエバ・ビスカヤ州(Nueva Vizcaya)の州名は、スペイン語で「新しいビスカヤ」という意味である。

"Vizcaya"というのは、英語スペイン語のウィキペディアの記述を合わせると、スペインのバスク地方の郡の一つで、バスク語本来の"bizkaia"は「山、崖」といった意味であるという(英語名は"Biscay")。世界遺産に認定されているビスカヤ橋という橋があるのもこのビスカヤ郡だというが、イギリスのヨーク(York)の新大陸版として、ニューヨーク(New York)という名前が生まれてきたのに似ている。大阪と新大阪は、少し違うか。

 

前置きが長くなるのはこのブログの悪いクセだ。このヌエバ・ビスカヤ州にドゥパックス・デル・スル(Dupax del Sur)という郡(municipality)がある。最近、ここを訪れた。件のOJTの少年にトライスィクルをぶっ飛ばして運んでもらった目的地だ。

ここのポブラシオン(Poblacion)にしゃれたものがある。「ポブラシオン」(población)とは、スペイン語で「人口、町、村」という意味で、英語にも、フランス語経由であろうか、"population"という形で入っているが、フィリピンでは郡の中でも役場のある中心的な町、いわば郡の「首都」を指す場合が大半である。ドゥパックス・デル・スルのポブラシオンにも、当然ながら役場があるのだが、そこに「ドゥパックス」という地名の由来が、それをそのままに説明した像とともに説明してある。

元々は地元のイス(ィ)ナイ語(Isnay, Isinay)で「狩人の昼寝」という意味であったというドゥパックス。「デル・スル」はスペイン語で「南の」という意味だ。日本の狩人、戦う男(女)のあなたも、この南の国ののどかな田舎で、つかの間の休息を楽しんでみてはどうだろうか。

 

013
ドゥパックス・デル・スル郡の役場。

 

014
これが「ドゥパックス」の名の由来を説明するモニュメントと
狩りの間にしばしの昼寝を楽しむ狩人たちの像だ。元は、
「ドパッフ」のような単語だったとある。

 

015
最初の「知事」? 最初の「首長」のデル・プエブロ氏の像。
任期?が1732-33年と1年だけなのも、1960年代頃までは
その誇り高い伝統を守っていたという首狩族のブッカロット族(Bugcalot)
(イロンゴット族(Ilongot))ならではの、いかにも意味深な短さだ。

 

012
英語のウィキペディアによれば、1602年にはドミニコ会による
奥地での布教が始まったというキリスト教(ローマ・カトリック教会)。
この役場の向かいにも、古式ゆかしい教会があり、異国情緒をあおる。

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
(にほんブログ村のランキング。よろしければクリックで応援ください)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イロカノ語講座を移転します

「移転します」と唐突に言われても、そもそもカテゴリーだけ別のブログから移してきただけで何もしていなかったイロカノ語講座ですが、このたび、イロカノ語と周辺諸言語だけを取り扱うブログを開設しましたので、中途半端で扱いに困っていたこのカテゴリーはそちらに移転することにいたします。

何もしていなかったというのは、いかに著作権の問題に配慮しつつ、自分の学習と皆さんのお手伝いになれるかという点で常に自問自答してきていたためで、今回の新規ブログの開設がその一つの解答になればと願っています。

本当は、Precy Espirituの市販の教科書(Let's Speak Ilokano(初級)やIntermediate Ilokano: An Integrated Language and Culture Reading Text(中級))などを学んでいけばいいのでしょうが、他人の著作を公共の場で1冊通してどうこうするのもはばかられ、思いあぐねてきていた次第です。

新しいブログでは、依然として他人の著作とはいえ、引用のかなり自由なイロカノ語聖書などの題材から(私の業務上の必要も兼ねて)学びつつ、それらに現れる構文を中心に、日常会話に生かせそうなものだけを、イロカノ語講座として、できるだけ平易な形でご提供できればと願っています。

イロカノ語のようなマイナー言語の学習など、一人で地味かつ勝手にしていればいいものなのでしょうが、根っからの言語屋でこれはもはや究極の「趣味」であること、説明しようとすることで理解が深まること、イロカノ語を学んでみたいという方は潜在的にかなりいらっしゃるはずにもかかわらず、マイナー言語であるがゆえに商業ベースには乗りにくく、このような場があれば少しは世間のお役に立てるのではないかと思うこと、などが理由です。

イロカノ語聖書などの学習メモについては、ほとんど独り言で込み入ったことをしていますので、特にオタクな方面に関心の無い方々は、「イロカノ語講座」のカテゴリーのエントリーのみをご笑覧いただければ幸いです。本当はmp3ファイルまで貼りつけて本格的なものにすればいいのでしょうが、そこまでの余裕はなかなかありませんのでご容赦ください。

また、イロカノ語聖書を使っているといっても、あくまでコーパス的に、言語資料として使っているだけで、キリスト教的な話はよほど解釈に必要な場合以外は一切していませんので、中級以降のイロカノ語に関心のある方でしたら、比較的抵抗なくご覧いただけることと思います。

それでは、皆さんそれぞれのフィリピン・ライフに少しでも貢献できることを願いつつ。今後とも、よろしくお願いいたします。

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
(にほんブログ村のランキング。よろしければクリックにて応援ください)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/10/04

9年ぶりの拘置所

9年ぶりの拘置所といっても、再びお世話になるのに変わりはないのだが、何かしでかしたわけではない。私はキリスト教の牧師や教師を養成する大学院の教師見習いでもあるのだが、そこに、学生の活動の一環として拘置所訪問というプログラムがあり、担当教師の一人として、学生を引率しての訪問だ。9年前にも一時、学生として訪問チームに加わっていたことがあるので、9年ぶりというわけだ。

9年ぶりといっても、変化はほとんど無かった。拘置所内の詳しい様子を書くのは、このような働きに携わる者の倫理として避けたいが、いつも(少なくとも外面的には)明るく、収容者たちの動きも自由で、およそ拘置所には見えない。上司にあたるアメリカ人教師と、韓国人、ニュージーランド人夫婦、フィジー人2名の学生たちは、いずれも初めての訪問だったが、特に訪問者との面会のためのスペースがあるわけでもなく、男女が同じ空間にいて(寝る場所はさすがに女子だけの一角があるようだが)、自由に使えるキッチンまである様子に、あっけにとられていた。

訪問といっても、日本の教誨師のように個別にカウンセリングといった大それたことをするわけではない。拘置所内のチャペルでキリスト教の礼拝を一緒にするだけだ。驚いたことに、収容者の中にはちょっとしたバンドのようなものがあり、きちんと楽器を弾いて、きょうびの讃美歌をリードしてくれる。フランク・シナトラの「マイ・ウェイ(My Way)」(私の道)を、「ザイ・ウェイ(Thy Way)」(あなたの道)と替え歌にして、自分が思うがままに生きてきた道から神が願ってくださっている道を生きるように変えられたと熱心に歌う姿は、シャバの教会でもなかなか見られるものではない。

献身的にリーダーを務めるクリスチャン収容者たちを見ていると、彼らもまた、私たちと同じ時間帯にどこか他の教会から奉仕に来ている人たちなのではないかと錯覚するほどだ。聖書から説教をするのは、9年前に来ていて少しでも中の雰囲気を知っているということで私だったのだが、熱心に耳を傾ける姿、涙を流して聞き入る姿には、私のほうが混乱させられる。9年前にも見たことのある顔が、刑務所ではなく拘置所でしかないここで見られることにも胸が痛む。また戻ってきたのか、それとも、いまだに判決に至らずにここにいるのか。

「キリスト教国」フィリピンは本当に奥が深い。なぜ、このように輝く彼らがここにいるのか。キリスト教は、人生が変わらなければ意味がない。たとえ故あってここにたどり着いてしまったにしても、ここからの人生は変わっていって欲しい。涙目の笑顔で感謝をしてくれる収容者たちと握手をしながら、そう祈らずにはいられない。

 

004
拘置所内の写真を撮ることはさすがに禁じられているので、
入場の際に押されるスタンプを。

 

125
不謹慎だが、昔、通っていた、出入り自由のディスコ(古い!)の気分だ。

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
(にほんブログ村のランキング参加中。類似のブログもこちらから)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008/10/03

変わるバギオ、変わらぬバギオ - その弐

ここ数日、非常に多くの方々にご来訪いただいているようで、驚きつつも感謝しています。また、にほんブログ村さんのランキングアップにもご協力くださり、本当にありがとうございます。なにより、ご紹介するものが喜んでいただけるというのは、大きな励みとなっています。今後とも、なにとぞよろしくお願いいたします。


「変わるバギオ、変わらぬバギオ」という記事を書いたのは最近のことだが、常に躍動する街バギオには、変わるものがまだまだある。そして、変わらぬものもある。

昨日は久々に街に出たので、散髪に行った。8年間変わらず、General Luna Rd.(ジェネラル・ルナ・ロード)沿いのUB Square(UBスクエア)2Fにある散髪屋だ。バスケットボールが大人気のフィリピンのこと、"Air Jordan"(エアー・ジョーダン)の異名を取ったMicheal Jordan(マイケル・ジョーダン)にあやかった"Hair Jordan"(ヘアー・ジョーダン)というしゃれた店名が気に入って通い始めた。

ゲイが多いと言われるフィリピンの理髪業界だが、英語ではかつて「陽気な」という意味だった"gay"(ゲイ)であっても、フィリピンでは、両極端な国民性を反映してか、シャイなゲイも多い。そもそも、英語でも話せれば他の仕事に就いているという人もあるだろう。簡単な英語すら通じないことも多い。

英語学習中の友人で、「ちょっとだけ切ってください」と言うつもりで「りとる……」と言ったところ、気づいた時はもう手遅れ、丸刈りにされて帰ってきた事件を2件ほど目撃したことがある。もっとも、これは切ってもらったほうも悪い。

また、「カット・ラン」(切ってください)とでも言おうものなら、左を切り、右を切り、左を揃え、右を揃え、しているうちに、どんどんと短くなる。フィリピンの散髪屋では、よほどの覚悟と希望があるのでないかぎり、「トリム・ラン」(揃えてください)と言うので十分だ。それでも、希望の長さから60%は短く仕上がる。お代は、「高級店」のこの店でも50ペソだ。

仕上げのカミソリは使い回しだ。毎回、HIVや肝炎でも移されるのではないかとロシアンルーレットの気分だ。今回こそはマイカミソリを持って行こうかと思い、かなり思い悩んだのだが、キリスト教の宣教師たる者、HIVや肝炎が恐くてお兄ちゃんに不快な思いをさせるわけにもいかないので「主よ……」と祈りながらこわごわでいると、今回はなんと、箱から新しいカミソリ刃を取り出しての処置だった。もっとも、既に使った刃を、客の見えないところでもっともらしく包み直しているのかどうかまでは考えないものだ。

中身は変わらぬ散髪屋も、実は数年前にオーナーが変わった。店名も"Hair Jordan"でなくなってしまったのは残念だ。絶対にゲイだ(しかも、夜はフレディー・マーキュリーばりに黒革に身を包み、チェーンとか金物をぶら下げてぶいぶい言わせている)と思っていたゴリラそっくりのお兄さんアランに実は妻子がいると嬉しそうに聞かされた時には、イスから転がり落ちたものだが、その彼もいなくなった。

そして、店名が変わっても、店員が変わっても、変わらず通い続ける自分がいる。頑なで、変わりたくともなかなか変われないのも、この自分という存在なのだ。

 

散髪話が長くなってしまった。今回お見せしたかったのがこちらの写真。2-4月と、相次ぐ火事騒動に見舞われたバギオも、次第に復旧しつつある。University of Baguio(UP:バギオ大学)とTiong San Department Store, Harrison(チョンサン・デパート・ハリソン店)は、資金繰りがついたのだろう、すっかり元の様子に戻っている。

変われないのがBaguio City Market(バギオ公設市場)だ。個人両替商の集まっていた通称ブラックマーケットの1ブロックが4月に、公には電気回路のショートとされる原因で消失した。しかし、親しい両替商のおっちゃんに聞くと、表通りのMagsaysay Avenue(マグサイサイ通り)に面した側に形だけのブースが設置された以外は、復旧の見通しは立っていないそうだ。

(ここまで書いて、大阪での事件について少し耳にしました。お悔やみを申し上げます。時期的に不適切な書き込みかもしれません。不快にお思いになった場合は、お赦しください。)

 

01 
2月に火災に遭ったバギオ大学の校舎。
学生による政治運動がらみの放火という話も聞かれたが
どうだったのだろう。

 

02
かなり痛々しい様子だった。私も実家が近所の火事で
焼け出されたことがあるので、よくわかる。

 

03
こちらは3月に火災に遭ったチョンサンデパート・ハリソン店。
一部の店員さんとは親しくなっていたのでとても気の毒だった。
報道では中国製の除湿器から火が出たということだった。
除湿器と言えば、このチョンサンで購入した我が家の
ドイツ製の除湿器からも火が出たことがあったので説得力はある。

 

04
この上階は倉庫と事務所になっているそうなのだが、
窓からどんどんと下の道路に向けて、無造作に物を
投げ落としているのが印象的だった。そしてもっと印象的だったのは、
地下のスーパーマーケットは数日後から営業していたことだ。

 

05
裏側もこの通り。フロア全体が焼けたようだった。

 

08
そして、4月に焼けた公設市場のブラックマーケット。

 

06
すっかり復旧したように見えるバギオ大学。

 

07
きれいに塗り直されたチョンサン。建物が老朽化したので
保険金目当てにオーナーがナニをしたのだとまことしやかに
噂するのも、フィリピン社会の一つの怖さだ。

 

09

復旧が進まないのがこの公設市場。今ではこの右半分に
申し訳程度のブースができ、一部のお土産物店と両替商が
細々と営業している。

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
(にほんブログ村のランキングに参加しています)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »