「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」
ヌエバ・ビスカヤ州カスィブ郡(Kasibu, Nueva Vizcaya)への訪問を終え、バギオ市(Baguio City)
への帰途についた私は、ほこりっぽい田舎道、うなりを上げてやって来たジプニーに飛び乗った。この地方の交通の要衝、ヌエバ・
ビスカヤ州バンバン(Bambang)へと下るためだ。唯一の幹線道路とはいえ、不定期にしか来ないジプニーは、
一つを逃すと一時間も二時間も待たされることがある。
乗り込んだジプニーは珍しくがらがらだ。バンバン行きのジプニーはたいてい、奥地での農作物を満載しており、
人は屋根にしか乗る場所が無い。いかにも役所に行きますといった、田園風景には恐ろしく場違いな服装の奥様方、
カスィブの埃道を行く前からやたら粉っぽい顔をした奥様方でさえ、いかにも重たげなお尻をためらいなく屋根に上ってくる。
ちなみにカスィブ郡の特産物はショウガ、カボチャ、それに柑橘類である。
少し行くとジプニーが止まる。不審に思っていると、道端に高く積まれた米のサックを積み始める。そう、米もまた、
高地ながら盆地の平地であるこのカスィブ郡の特産物なのだ。がらがらのジプニーはやはり、
がらがらのままバンバンに下るような愚かな無駄はしないのである。
一つのサックは、おそらく50kgの米が詰められているのであろう。農家のオヤジらしき人物の指示で、ジプニーの車掌である若者と、
なぜか乗客の若者が、協力しながらジプニーに積み込んでいく。こういう時に、なんだ、オレは客だぞ、
などと野暮なことを言わず自然に手伝える若者の姿は、いくら彼もまたおそらくは農家の子供でそれが生活の一部になっているにしても美しい。
二人の若者は、サックの両端を持ち、二、三回、左右に振って弾みをつけ、頭の上の高さまで振り上げる。
そして運ぶ側の若者がサックをしっかり握ったまま体を反転させると、重い米のサックがずんと頭の上に乗るという要領である。
しかし、どれほど淡々と仕事をこなしているように見えようが、50kgからの米を頭に乗せて積み込み作業を続けるというのは、
決して楽な作業ではない。そういう姿を見ていると、こちらも、後から乗れそうなジプニーがやって来たとて、
あっさりと見切ってそちらに乗り移るわけにもいかない。"katugawan"(同じイスに座り合わせた者同士)
という言葉さえある文化である。ここはこちらも、早く先に進みたいという心の苛立ちを隠しながら、のんびりと待つことにする。
カスィブ郡はのどかな田園地帯である。小川のほとりにはココナツの木が並ぶ。お取り込み中のジプニーの横を、
パニキと呼ばれる荷台を引いたカラバオ(水牛)が何の遠慮もなく追い抜いていく。ちらりとこちらに一瞥をくれていくのは、
カラバオなりの礼儀というものがあるのだろう。
冒頭の言葉は、新約聖書のマタイによる福音書19章30節にあるイエス・キリストの言葉である。人生は、
なんとか先の者を追い抜いていこうという戦いに満ちている。しかし、自ら願ってであれ、時にはこのように不本意であれ、
先の者でありながら後の者になるというのも良いものかもしれない。イエス・キリストの語る「後の者が先になる」ということも、
自らの努力によってそうなるというのではない。後の者に道を譲っていく謙遜さを学ぶことによって、
時が来れば神が一番良い形で引き上げてくださる、人が持ち上げてくれる、と言うのである。
「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、
仕える者のようになりなさい」(イエス・キリスト(ルカによる福音書22章26節))
田舎に生まれ育ったのも一つの定め、都会の同年代の若者に比べれば後を行っているかのように見えるこのカスィブの若者たちにもまた、
ひとかけらでも多く、神と人からもたらされる幸せを味わってもらいたい。クリスマスを前に、米の積み込みをぼんやりと眺めながらの、
思いの戯れである。

体をくりんと反転させて頭の上に乗せたところ。
まっすぐ伸びた背筋と、足の踏ん張り具合が、
米の重さと、子供の頃からの鍛えられ方を語っている。

後ろからやって来るのは、あとは町までまっしぐら
というのが明らかなジプニー。もう一本、待てば
よかったというのが正直なところ。

「その人は水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない」
(詩篇1編)

うう、あんなのろのろしたヤツにまで先を越されて
しまうとは。
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