カテゴリー「02a-01 学習メモ:イロカノ語聖書:創世記」の11件の記事

2008年10月 9日 (木)

創世記1:5c

Daytoy ti umina nga aldaw. (Gen. 1:5c; IPV)

【語義・語形成(Rubino(2000)を参照)】

daytoy /dai'toi/ <Pron>(代名詞):これ

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

umuna /u'muna/ <A>:第一の

nga /nga/ <L>:<文の様々な統語的要素を結び合わせる。子音の前では"a"、母音の前では"nga"だが、話し言葉においては、地域的に、子音の前でも"nga"が用いられることがある>

aldaw /al'dau/ <N>:日、昼間

 

umuna nga aldaw

"nga"のここでの機能は修飾・被修飾関係にある形容詞と名詞を結び合わせること。"aldaw"が母音で始まっているので、"a"ではなく"nga"が用いられている。「第一の日」、「最初の日」、「一日目」。

daytoy

イロカノ語の語順は、述部-主部なので、"daytoy"はこの文の述語。これは、大上(2003)がフィリピノ語文法について「特定文」(pp. 24-7)と読んでいるものに対応すると思われ、「一日目はこれである」「これが一日目である」のように訳されるものであると思われる。なお、イロカノ語には、英語のbe動詞に相当するもの(繋辞、コピュラ)は存在しない。

 

 

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創世記1:5b

Limmabas ti rabii, ket dimteng ti bigat. (Gen. 1:5b; IPV)

【語義・語形成(Rubino(2000)を参照)】

limmabas /lim'mabas/ <V>:通り過ぎた(< labas + -imm- (< -um-))

labas /'labas/ <N>:通過、何かを大見に見ること

-um- /um/ <Aff>:<語根の最初の母音の前に置かれ、動作主焦点の自動詞を形成する。接頭辞ag-による行為者焦点動詞とは異なり、この接中辞-um-による動詞においては、語幹によって示されている行為が、短い期間、単一の行為によってなされる。完了形は"-imm-">

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

rabii /ra'bii/ <N>:夜、晩(sardam

ket /ket/ <Conj>:そして、~ではあるが、しかし、それで<結果>

dimteng /dim'teng/ <V>:来た、到着した(< dateng + -im- (< -um-))

dateng /da'teng/ <N>:到着

-um- /um/ <Aff>:(上掲)

-im- /im/ <Aff>:<-imm-の変異形。子音の前、語根の母音が脱落する際に用いられる。その母音は常にというわけではないがたいていは"e"であり、子音が潜在的に二重に存在する際に削除される>

ti /ti/ <Art>:(上掲)

bigat /bi'gat/ <N>:朝

 

limmabas ti rabii

"limmabas"は自動詞なので、焦点化名詞"rabii"は(この例ではもちろん比喩的な意味で)動作主。

dimteng ti bigat

完了の接中辞が"-imm-"ではなく"-im-"であるのは、上のRubino(2000)の説明にあるように、語根が"dateng"ながら母音の"a"が脱落しているため(dateng > d- -teng("a"が脱落) > d- -um- -teng > d- im- -teng)。

 

以上から、日本語訳は「夜が過ぎ去り、(そして)朝が来た」となる。

 

 

 

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創世記1:5a

Pinanagananna ti lawag iti "Aldaw," ket ti sipnget, "Rabii." (Gen. 1:5a; IPV)

【語義・語形成(Rubino(2000)を参照)】

pinanagananna /pinana'gananna/ <V>:彼が名づけた(< nagan + pa- -an + -na + -in-)

nagan /'nagan/ <N>:名前、用語、名称

pa- -an /pa an/ <Aff>:<-an動詞の使役形。完了形は"pina- an">

-na /na/ <Encl>(後椅辞):<3人称単数能格>

-in- /in/ <Aff>:<-en動詞、-an動詞、その他"-en""-an"で終わる多くの複合動詞の完了形を形成する接中辞>

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

lawag /la'wag/ <N>:明るさ、まぶしさ、光、輝き、明瞭さ

iti /'iti/ <Art>:<冠詞"ti"の斜格形> / <Prep>:~に関して / <Conj>:~のゆえに

aldaw /'aldau/ <N>:日、昼間

ket /ket/ <Conj>:そして、~ではあるが、しかし、それで<結果>

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

sipnget /sip'nget/ <N>:暗闇、暗がり

rabii /ra'bii/ <N>:夜、晩(sardam

 

pinanaganna

未完了形は"panaganan"で、Rubino(2000)の言う使役形という説明を活かせば「名づけさせる」、すなわち焦点化名詞の"ti lawag"を取って「光に名づけさせる」の意味。ところが、この文脈は明らかに「名づける」という普通の他動詞の意味。この違いについては、私の理解を超えているので、少し宿題にしておく。

焦点化される名詞が<対象>という意味役割を帯びるとされ、動詞に表される行為から直接的な影響を受ける-en動詞(対象焦点動詞)に対し、-an動詞では、焦点化される名詞は部分的な影響を受けるのみか、あるいは行為の向かう/行われる場所を示す。このため、-an動詞は「方向焦点動詞」と呼ばれ、焦点化される名詞は<方向>という意味役割を帯びると説明される。

"panaganna"は「名づける」という行為なので、その行為によって対象の"lawag"また"sipnget"が、とりわけ物理的な影響を受けるわけではなく、また、(きわめて抽象的に考えてではあるが)名前が「つけられる」方向ないし目的地であることから、-an動詞という形式の選択が適切であることが理解できる。

ti lawag iti "Aldaw"

"ti"で標示されていることから"lawag"が焦点化名詞であり、意味役割としては<方向>。興味深いことは、その名づけられた名前が斜格の"iti"で標示されている点である。

日本語の動詞「名づける」は「~を~と名づける」という格フレームを採る。時折、意図的にか口が滑ってか「~に~と名づける」という例を耳にするが、これなどはイロカノ語での-an動詞の使用と並行する例であると言えよう。なお、英語の動詞"name"は"name <名づけられるもの> <名前>"というSVOC構文を採る。"I <S> named <V> my daughter <O> Robin <C>"のような形である。

このように考えれば、学習者としては、このイロカノ語の"panaganan"を、

panaganan
<動作主(名づける主体):中心格ないし能格>
<方向(名づけられる主体):中心格ないし絶対格>
<名前:斜格>

と理解してもいいだろう。

ket ti sipnget, "Rabii."

これは基本的に"ti lawag iti "Aldaw""と同じ構文の反復だが、2度目なので冗長になるのを避けるため"iti"は省略されている。あるいは、英語で"I named my daughter, "Robin""と表記できるように、"iti"を用いて名前の部分を格フレームの中に取り込んだ構文ではなく、直接引用したような形になっているとも言える。日本語では、「私は娘を、「花子」、名づけた」とは言えず、これはできない。

以上のことから、この文の日本語訳は「神(彼)は光を「昼」、闇を「夜」と名づけた」となるだろう。

 

 

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創世記1:4b

Pinaglasinna ti lawag ken ti sipnget. (Gen. 1:4b; IPV)

【語義・語形成(Rubino(2000)を参照)】

pinaglasinna /pinag'lasinna/ <V>:彼が分けた(< lasin + pag- -en + -na + -in-)

lasin /'lasin/ <N>:(Rubino(2000)は、語根としてのこの形態に特に意味を当ててはいないが、派生する種々の動詞から、この語根が「分離」を意味するものであることは推定できる)

pag- -en /pag en/ <Aff>:<ag-動詞を対象焦点動詞にした使役形を形成する(従って、動作主には-ko系を採る)。完了形は"pinag-">

-in- /in/ <Aff>:<-en動詞、-an動詞、その他"-en""-an"で終わる多くの複合動詞の完了形を形成する接中辞。-en動詞の場合には、語根の最初の母音の前に挿入され、接尾辞-enは脱落する>

-na /na/ <Encl>(後椅辞):<3人称単数能格>

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

lawag /la'wag/ <N>:明るさ、まぶしさ、光、輝き、明瞭さ

ken /ken/ <Conj>(接続詞):(A)と(B)

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

sipnget /sip'nget/ <N>:暗闇、暗がり

 

pinaglasinna

未完了形は"paglasinen"。-en動詞なので対象焦点動詞。したがって、動作主が代名詞の場合は能格(上のRubino(2000)の説明では「"-ko"系」の代名詞)で標示される(名詞の場合は中心格(この場合は"ti Dios"となる))。ここでは、後椅辞"-na"により、「彼/彼女/それが分けた」の意味。

ti lawag ken ti sipnget

"ti"で標示されていることから、これが焦点であり、意味役割としては対象。動詞が「分けた」なので、分けられた2つのものが"ken"で並置されているのも自然なことであろう。

日本語訳は、特に問題なく、「神(彼)は、光と闇を分けた」となるだろう。

 

 

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創世記1:4a

Naragsakan ti Dios iti nakitana. (Gen. 1:4a; IPV)

【語義・語形成(Rubino(2000)を参照)】

naragsakan /narag'sakan/ <V>:(< ragsak + na- -an (< ma- -an))

ragsak /rag'sak/ <N>:幸福、喜び(rag-o

ma- -an /ma an/ <Aff>:<語根に特定された状態に非意図的に到達することを示す接辞。完了形は"na- -an">

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

Dios /'dios/ <N>:神

iti /'iti/ <Art>:<冠詞"ti"の斜格形> / <Prep>:~に関して / <Conj>:~のゆえに

nakitana /naki'tana/ <V>:彼が見た、彼に見えた(< nakita (< makita) + na)

makita /ma'kita/ <V>:見る、気づく / <A>:見ることのできる(< kita + ma-)

kita /'kita/ <N>:種類、階層、外見、種、形、側面、見かけ

ma- /ma/ <Aff>:<ある行為の能力、非意図的ないし偶発的な発生、受動的可能性、共起的本質を示す。完了形は"na-">

-na /na/ <Encl>(後椅辞):<能格3人称単数>

 

naragsakan

「喜ぶ」という「行為」は、外的にせよ、内的にせよ、要因があり、そこからRubino(上述)の言うように「非意図的に」引き起こされるものなので、この"ma- -an"の用法はその意味論に合致している。

日本語でも「喜ぶ/嬉しくなる」は「わざと喜んだ/嬉しくなった」などは特別な文脈でない限り言えず(「わざと喜んで見せた」はまた別の行為)、「思わず喜んだ/嬉しくなった」など、非意図性の副詞と共起する。英語でも"rejoice"などの動詞がある一方で、"be pleased"などの受動態起源の表現があり、ギリシア語でも"CAIRW"、"MAKARIZW"などの動詞がある一方で、"EUFRAINOMAI"、"SUNHDOMAI"などの、やはり受動態起源と考えられる動詞(能動態欠如動詞)がある。

なお、イロカノ語でも、意図的に制御可能な行為の動詞として"agragsak"(< ragsak + ag-)がある。「この日は主が造られた、我らは喜ぼう、この日をば」という日本語訳もあるオリジナルは英語の歌で、イロカノ語訳は"agragsaktayo"((共に)喜ぼう!)という動詞が当てられている。聖書には、苦しみや困難の中にあっても、神が共にいらっしゃるがゆえに、あえて、わざと喜ぶという思想がある。この"maragsakan"(< ragsak + ma- -an)と"agragsak"(< ragsak + ag-)の対立などは、イロカノ語の動詞の意図性の有無とその形態的差異を学ぶうえで格好の材料を提供してくれる。

 

ti Dios

動詞"naragsakan"が自動詞なので格としては能格、また、"Dios"は代名詞ではなく名詞なので、イロカノ語での表示としては中心格となり"ti"で標示されている。

意味役割としては、動詞"maragsakan"が非意図的な行為を表す動詞であり、また、"ragsak"は「喜び」という感情を表す語根であるので、動作主というよりは、厳密には、経験者ということになるであろう。

 

nakitana

"makita"は、上のRubino(2000)の説明によれば、他動詞として「見る」の意味にもなり、形容詞として「見ることのできる」の意味にもなる。他動詞であれば、動作主の「彼」(ここではすなわち「神」)は能格の"-na"で標示され、形容詞であれば絶対格の"isu"で標示される。ここでは"-na"なので「見る」の意味。完了形なので「彼が見た」。

iti nakitana

冠詞(ここでは上のRubino(2000)の説明のように前置詞、接続詞の可能性もあり)の"iti"(中心格の"ti"も)には、1:2aの"ti amin"のように、名詞ではなく動詞や形容詞を標示する際、標示される要素を名詞化する機能もある。ここでは、動詞"nakitana"なので、直訳すると「彼が見たものに関して、見たもののゆえに」の意味になる。

あるいは、"-na"は、能格(動作主)"-na"と絶対格(対象)"isu"の融合形でもあるので(Rubino(2000):xliii)、"iti"が接続詞ならば、「彼がそれを見たので」という解釈も成り立つ。ただし、対応されるとされるTEV(Today's English Version)では"God was pleased with what he saw."(神はご自分の見たものに喜んだ)となっており、この解釈にはそぐわない。

この辺りになると、ネイティブ・チェックの必要な領域なので、ここではこれ以上、立ち入らないことにする。前者では「神はその目にしたもののゆえに喜んだ」、後者では「神はそれ(=光)を見て喜んだ」という訳になる。

ちなみに、NIV(New International Version)では"God saw that the light was good,"(神は光が良いのを見た)とされている。日本語の新共同訳では「神は光を見て、良しとされた」とあり、原典のヘブライ語では「神はその光を良きものと見た」のような構文になっており、ヘブライ語からギリシア語への翻訳では"KAI EIDON hO QEOS TO FWS hOTI KALON"(そして神はその光を見た。なぜならそれ(光)は良かった)のようになっている。

これらの原典と翻訳で「光」が明記されているのに、なぜ英語の非母語話者を読者として想定しているはずのTEVが「彼の見たもの」のような抽象的な訳を選択しているのかは疑問だが、それに対応するとされるイロカノ語訳も同様になっているわけである。

 

 

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2008年10月 8日 (水)

創世記1:3

Imbilin ti Dios, "Mapaadda ti lawag." Ket napaadda ti lawag. (Gen. 1:3; IPV)

【語義・語形成(Rubino(2000)による)】

imbilin /im'bilin/ <V>:(<ibilin)

ibilin /i'bilin/ <V>:命令する、使者を送る、使いの者を通じて届ける(<i + bilin)

bilin /'bilin/ <N>:命令、義務、(聖書の)戒め

i- /i/ <Aff>:対象焦点動詞を形成する接頭辞。絶対格の項が道具的ないし対象的性質であること、あるいは、物理的・心理的な移動の対象であることを示す。完了形は、語根が子音の場合は"in-"、母音で始まる場合は"iny-"。

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

Dios /'dios/ <N>:神

mapaadda /mapaad'da/ <V>:(< mapa + *adda)

mapa- /mapa-/ <Aff>:外的な力に引き起こされる時になされる本能的(非意図的)な行為を示す。完了形は"napa-"

adda /ad'da/ <V>:<存在詞> ある、持っている

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

lawag /la'wag/ <N>:明るさ、まぶしさ、光、輝き、明瞭さ

ket /ket/ <Conj>:そして、~ではあるが、しかし、それで<結果>

napaadda /napaad'da/ <V>:(< napa- + *adda)

ti:(上述の通り)

lawag:(上述の通り)

 

imbilin

語根の"bilin"が「命令」なので、接頭辞"i-"がついて「命じる」。完了の"im-"(本来的には"in-"だが、"bilin"が両唇音(唇で出す音)の"b"で始まっているので、"im-"に逆行同化している(日本語の「ん」が「さんま」の時に"m"になるのと同じ現象。要は発音上の労力の軽減化(手抜き:フィリピン人はこれも"shortcut"で説明してしまうのか?)))。

 

ti Dios

上のRubino(2000)の"ibilin"についての説明で、「絶対格」というのが出てくるが、これはag-動詞などの自動詞なら動作主、-en動詞などの他動詞なら対象その他の動作主以外で、いずれも焦点の当たっている名詞の取る格のこと。

自動詞の動作主と他動詞の動作主以外が同じ格を取るということから、イロカノ語は類型論的に「能格言語」(ergative language)の一種とされ、これら自動詞の動作主と他動詞の動作主以外が取る格は「絶対格」(absolutive case)と呼ばれる。これに対して、日本語(英語も同様)は、自動詞の動作主と他動詞の動作主が同じ格を取ることから「対格言語」(accusative language)と呼ばれる。次に少し例示してみる。

 

【イロカノ語】

agtarayka:「君が走る」

"-ka"<「君」自動詞の動作主:絶対格

patayenka:「私が君を殺す」

"-ka" = "-ko"<「私」他動詞の動作主:能格> + "-ka"<「君」他動詞の対象:絶対格

patayem:「君が彼・彼女・それを殺す」

"-m" = "-mo"<「君」他動詞の動作主:能格> + "isu"<「彼・彼女・それ」他動詞の対象:絶対格>

【日本語】

君が<自動詞の動作主:が格>走る

私が<他動詞の動作主:が格>君を<他動詞の対象:を格>殺す

君が<他動詞の動作主:が格>彼を<他動詞の対象>殺す

 

この理屈で行けば、この創世記1:3"Imbilin ti Dios"の"ti Dios"は、動詞が他動詞"imbilin"なので能格ということになるが、イロカノ語の名詞では、絶対格(absolutive case)と能格(ergative case)は形態的に区別されず、Rubinoの用語で言えば中心格(core case)として"ti"(複数はdagiti)で表示される。1:1の"pinarsua ti Dios ti lubong"(神が宇宙を創造した)で動作主の"ti Dios"(神)(能格)、対象の"ti lubong"(宇宙)(絶対格)がいずれも"ti"で表示されているのはそのためである。一方、イロカノ語の代名詞では、この絶対格と能格の対立は、あまり美しい体系ではないが形態的に保たれている。

なお、イロカノ語の格にはもう一つ、斜格(oblique case)がある。これはまた、出てきた時に取り扱う。

 

mapaadda / napaadda

"adda"は、上のRubino(2000)の説明にもあるように、存在詞で「ある」(存在)、「持っている」(所有)を意味する。接頭辞"mapa-"は、上のRubino(2000)の説明を直訳すれば「外的な力によって~が存在するようになる」という意味になる。"mapa-"は未完了形なので、"imbilin"(命令した)という動詞でも明示されているように、語用論的に「光が外的な力によって存在するようになれ」という命令の機能を帯びる。簡潔に言えば「光が生まれるように」ということであり、一般的な翻訳に見られるように「光よ、あれ」に近い意味となる。Rubino(2000)の「外的な力によって」という記述は、この箇所の神の力による無から有の創造によく合致している。

"napaadda"は、"napa-"から明らかであるように完了形であるので、「外的な力によって存在するようになった」の意味。この""Mapaadda ti lawag." Ket napaadda ti lawag."というくだりは、未完了と完了形を理解するための例文として暗唱しておいてもいいほどである。

ti lawag

"lawag"は、明るい様子を表す抽象名詞。日常生活での具体的な光(電灯など)を表す語としては"silaw"がある。

 

 

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創世記1:2c

. . . ket ti Espiritu ti Dios aggargaraw iti rabaw ti danum. (Gen. 1:2c; IPV)

ket /ket/ <Conj>:そして、~ではあるが、しかし、それで<結果>

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

espiritu /es'piritu/ <N>:霊、魂(kararua, anito

ti /ti/ <Art>:<所有格(possessive)単数一般名詞>

Dios /'dios/ <N>:神

aggargaraw /aggarga'rau/ <V>:(<aggaraw)

aggaraw /agga'rau/ <V>:動く、かき混ぜる

ag- /ag/ <Aff>:<自動詞を形成する接頭辞。完了形は"nag-"。ここでは、動作主が完全に制御できる行為>

iti rabaw /itira'bau/ <Prep>:~の上に

rabaw /rabau/ <N>:上側、~の上、物の最も高いところ

ti /ti/ <Art>:<所有格(possessive)単数一般名詞>

danum /da'num/ <N>:水、膿(ano

 

ket

"ken"が並列的な「と」「そして」であるのに対し、"ket"は論理的、時間的な「そして」。

ti Espiritu ti Dios

1つめの"ti"は中心格の冠詞。2つめの"ti"は、後ろの名詞が前の名詞を修飾する「所有格」てきな働きをする。<名詞 ti 名詞>の構造においてこの働きをする。従って、「神の霊」の意味。

イロカノ語の基本語順はVS(O)であり、述語が主語の前に来るが、ここでは述語の前に来ている。これは、ある種の強調表現か。

aggargaraw

"ag- + gar + *garaw"。語根*garawの最初の子音+母音+子音(CVC)を重複させることにより、進行の意味を表す。「動いている」。

iti rabaw ti danum

"iti"は斜格の冠詞。"ti"は2つの名詞"rabaw"と"danum"に挟まれているので、後の名詞が前の名詞を修飾していると解釈される。「水の上に」。

 

したがって、この節の訳は「そして、(実に<強調>)神の霊が水の上を動いていた」となるだろうか。

 

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2008年10月 7日 (火)

創世記1:2b

. . . ken nakumotan iti napuskol a sipnget ti nadawel a taaw a nanglapunos iti amin, . . . (Gen. 1:2b; IPV)

ken /ken/ <Conj>(接続詞):(A)と(B)

nakumotan /nakumo'tan/ <V>:(<makumotan)

makumotan /makumo'tan/ <V>:(kumot + ma- -an)

kumut /'kumut/ <R>(語根):<"agkumut"(<V>:毛布で自分を完全にくるむ)、"ikumut"(<V>:自分を完全にくるむために~を使う)、"kumutan"(<V>:完全に覆う)、"sikukumot"(<a>:覆われた)などの語根>

ma- -an /ma an/ <Aff>:<語根によって特定された状態の非意図的達成を示す接頭辞。完了形は"na- -an">

iti /iti/ <Art>:<斜格(oblique)単数一般名詞>

napuskol /napus'kol/ <A>:厚い、濃密な

a /a/ <L>(リンカー):<文の様々な統語的要素を結び合わせる>

sipnget /sip'nget/ <N>:暗闇、暗がり、夕闇

ti /ti/ <Art>:<中心格(core)単数一般名詞>

nadawel <nada'wel> <A>:残酷な、無情な、有害な、強い(海ないし風)

a /a/ <L>(リンカー):<文の様々な統語的要素を結び合わせる>

taaw /ta'au/ <N>:大洋、海(baybay

a /a/ <L>(リンカー):<文の様々な統語的要素を結び合わせる>

nanglapunos /nangla'punos/ <V>:(lapunos + nang-)

lapunos /la'punos/ <N>:<完全に覆われた状態。(満ち)あふれている状態> 

mang- /nang/ <Aff>:<他動詞を非他動詞化する接頭辞((-an、-enの)他動詞を自動詞の格フレームに変えるために用いられる)。完了形は"nang-">

iti /iti/ <Art>:<斜格(oblique)単数一般名詞>

amin /'amin/ <A>(形容詞):全て、全体の、完全な / <Adv>(副詞):全て:

 

nakumotan

「語根によって特定された状態の非意図的達成を示す」というRubino(2000)の説明を踏まえて直訳すれば「覆われるところとなっていた」となるだろうか。ただ、"kumot"は、知人のベンゲット・イロカノ語のネイティブ・スピーカーによれば、ここでの訳語の選択としては不自然に感じられるという。

napuskol a sipnget

「濃い闇」。この場合の"a"は、形容詞と名詞を結び合わせる働きをしている。"iti napuskol a sipnget"で、「濃い闇の中に」、「濃い闇によって」のような意味になるだろうか。

nadawel a taaw

「逆巻く海」。この場合の"a"も、形容詞と名詞を結び合わせる働きをしている。"ti"によってマークされているので、これが主語。「逆巻く海は濃い闇の中に覆われていた」

a nanglapunos iti amin

「全てを完全に覆う~」。この場合の"a"は関係代名詞の働きを果たす。従って、先行詞にあたる"nadawel a taaw"とともに、"nadawel a taaw a nanglapunos iti amin"で「全てを完全に覆う逆巻く海」。

 

nanglapunos

まず、ここで表されている概念をこの動詞だけで表現するならば、"lapunosen ti nadawel a taaw ti amin"(逆巻く海が全てを覆う)となる("lapunosen":他動詞「覆う」(lapunos + -en);"ti nadawel a taaw":動作の主体(動作主)「逆巻く海が」;"ti amin":動作の対象(対象)「全てを」<動詞が対象焦点の-en動詞なので、これが焦点>)。

ところがこの節では、動詞"lapunosen"の動作主にあたる"ti nadawel a taaw"が、関係代名詞に相当するリンカー"a"を介して修飾されている。イロカノ語では、動詞の焦点にあたる名詞だけが関係代名詞による修飾を受けることができる。そのため、動詞が対象焦点の"-en"のままでは文法的に不適切。

このような場合、"detransivization"(非他動詞化)という操作がなされる。対象焦点他動詞である-en動詞ないしは-an動詞から接尾辞"-en"、"-an"を外し、代わりに接頭辞"mang-"(完了形は"nang-")をつける(lapunosen > lapunos + -en > lapunos > mang- + lapunos > manglapunos > nanglapunos)。

この操作によって、動詞は自動詞扱いになり、動作の主体に焦点(すなわちここでは"nadawel a taaw")が置かれることになり、これでこの"nadawel a taaw"が関係代名詞的リンカーの"a"を介して修飾されることが可能になる。また、対象焦点-en動詞"lapunosen"の焦点名詞"ti amin"も、これによって焦点から外れ、結果、中心格ではなく斜格の冠詞"iti"でマークされることになる(ti amin > iti amin)。

これはすなわち、次のように図式化できる。

 

1: 他動詞の場合、単純に-en動詞<対象焦点動詞>になる:

<*lapunos (【動作主】nadawel a taaw, 【対象(焦点)】amin)>

⇒ 【他動詞:対象焦点】lapunosen 【主体】ti nadawel a taaw 【対象】ti amin

2: 関係節として修飾する場合、被修飾名詞の"nadawel a taaw"は"*lapunos"にとって動作主であるため、対象焦点を動作主焦点に変換するために非他動詞化が適用される(-en > mang-(nang-:完了)):

nadawel a taaw (←修飾 (a) < *lapunos (【動作主(焦点)】nadawel a taaw, 【対象】amin))

⇒ nadawel a taaw 【関係節】(a 【非他動化動詞:動作主焦点】nanglapunos 【動作主(焦点)】 【対象】iti amin)

 

まとめると、この節(ken nakumotan iti napuskol a sipnget ti nadawel a taaw a nanglapunos iti amin)の構造は次の通り。

ken:接続詞「また」

nakumotan:述語「完全に覆われていた」

iti napuskol a sipnget:副詞的修飾句「濃い闇によって/の中に」

ti nadawel a taaw:主体「逆巻く海が/は」

(ti nadawel a taaw) a nanglapunos iti amin:関係節「全てを覆う(逆巻く海は)」

 

ただ、そもそも「全てを覆う逆巻く海は濃い闇の中に完全に覆われていた」というのはどういう情景なのだろうか。対応するTEV(Today's English Version)も"The raging ocean that covered everything was engulfed in total darkness"となっているので、確かに似たような意味になってはいるのだが。

他の訳は次の通り。いずれも、もっとすっきりした訳になっている。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、(新共同訳)

Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, (NIV)

 

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創世記1:2a

Gusoguso ken awan urnos ti amin . . . (Gen. 1:2a; IPV)

gusoguso /gu'so/ <N>:無秩序、形の無い状態(kuso

ken /ken/ <Conj>(接続詞):(A)と(B)

awan /a'wan/ <Exis.>(存在詞):<addaの否定> 持っていない、何も無い、誰もいない、無い

urnos /'urnos/ <N>:整った状態、調和、秩序、体系

ti /ti/ <Art>(冠詞):<中心格(core)単数一般名詞>

amin /'amin/ <A>(形容詞):全て、全体の、完全な / <Adv>(副詞):全て:

 

gusoguso

"kusokuso"という形もあり、日本語的に言えば、形が無くぐちゃぐちゃな様子。

ken

2つの要素を並列的に並べる。

awan urnos

「秩序がない」

"Gusoguso ken awan urnos"で述語となっているが、過去を表す要素が含まれていないことに注目。1:1の"idi"の効力がここまで及んでいて、この文も、述語が「過去」になっていなくとも過去の意味を表すことが自明のこととされている。

ti amin

形容詞"amin"(全ての)に冠詞の"ti"がつくと「全てのもの」「あらゆるもの」のように名詞化される。

 

この節では、"gusoguso ken awan urnos"が述語、"ti amin"が主語。「何もかもが形無く、無秩序で……」

 

 

 

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創世記1:1

そういうわけで、創世記(Genesis;略称はGen)1:1を見てみる。なお、イロカノ語辞書(語義だけでなく文法解説も含む)はCarl Rubino(2000)を参照している。

Idi punganay, pinarsua ti Dios ti lubong. (Gen. 1:1; IPV)

idi /i'di/ <Prep>(前置詞):<時間を表す名詞を過去と関連づける>

punganay /pu'nganay/ <N>(名詞):始まり、開始、初期段階、起源、源(puon)、etc.

pinarsua /pinarsu'a/ <V>(動詞):(parsuaen + -in-)

parsuaen /parsu'aen/ <V>:創造する(<parsua)

parsua /parsu'a/ <N>:創造(nakaparusuaan:自然、被造物)

-in- /in/ <Aff>(接辞):<-en動詞ならびに-an動詞の完了接中辞。-en動詞の場合は語根の第一母音の前に挿入し、-enは脱落する>

ti /ti/ <Art>(冠詞):<中心格(core)単数一般名詞>

Dios /'dyos/ <N>:神

lubong /'lubong/ <N>:(全)世界、宇宙、谷

 

idi punganay

直訳すれば「かつて初めの時に」ということになるだろうか。イロカノ語は動詞の時制の体系がほとんど発達しておらず、中国語やギリシア語(日本語もこれに近い)のようにアスペクト(完了、未完了)が優勢な言語なので、過去のできごとを語る際にも、動詞の過去形と呼べるものがない。そのため、完了形で過去形を代用したり、この"idi"を、いわば過去のマーカーとして用いる。この文がまさにその例である。

また、"idi"には、"idi kalman"(昨日)、"idi napan a bulan"(先月)、"idi Mierkoles"(先週の水曜日)などの便利な用法もある(Rubino, 214)。

pinarsua

他動詞"parsuaen"の完了形。上のRubinoの解説にあるように、"parsuaen"は-en動詞なので、完了形にするには語根"parsua"の第一母音"a"の前に"-in-"を挿入し、"-en"を落とす(parsua+en > p(-in-)arsua+en > pinarsua+-en > pinarsua)。

ti Dios

冠詞"ti"によって「中心格(core case)」であることがわかる。また、動詞「創造する」の意味からしてその行為の主体(「動作主」とも言う)であると解釈できる(「宇宙が神を創造した」よりも「神が宇宙を創造した」とするほうが常識的に自然)。

ただし、イロカノ語や多くのフィリピン諸語で「中心格」になるのは動作主とは限らない。これらの言語で重要なのは「焦点(focus)」という文法概念である。そして、動詞の形式によって文中のどの要素に焦点が当たるかが決まり、その要素が「中心格」で表されることになる。

この文の動詞"parsuaen"は-en動詞だが、Rubinoによれば、この-en動詞は「対象焦点(patient focus)」の他動詞である(183)。対象焦点ということは、行為を受ける対象(この場合は"lubong"(宇宙))が中心格で表されるということになる。したがって、"-en"だけに注目するなら、この文の一番の「主役」は"ti lubong"であるということになる。

それでは"ti Dios"の立場はどうなるのだろうか。これについては、言語学的にはいろいろとアプローチが考えられるが、まだまだ初学者ゆえに未消化な部分が多いので、また追々にしようと思う。

ti lubong

この部分、一般的な聖書の翻訳では2つの要素が登場する。"EN ARCH EPOIHSEN hO QEOS TON OURANON KAI THN GHN."(ギリシア語七十人訳)、「初めに、神がを創造した」(新改訳)、「初めに、神は天地を創造された」(新共同訳)、"In the beginning God created the heavens and the earth."(New International Version)となっており、原語のヘブライ語でも「シャマイム」(天)、「エレツ」(地)という2つの要素がはっきりと書かれている。

これは、このイロカノ語訳であるIPVが、英語のToday's English Version(TEV)に準拠するものであることによると思われる。TEVでは次のようになっている。"In the beginning, when God created the universe, . . ."

IPVのイントロダクションでは、旧約聖書については、現代では最も権威があるとされているBiblia Hebraica Stuttgartensia第3版を底本としているとしている。しかし、この例を見ると、訳文の最終的な決定に際しては、英語学習者、非キリスト教圏の人々が英語聖書に親しめるようにという独特な方針に沿って翻訳されたTEVの様式を踏襲しているようである。

イロカノ語聖書は、翻訳者の事情から、原典から直接翻訳するというよりは、大部分を英訳聖書から翻訳し、問題となる箇所のみ原典を参照する形を取ったのだと聞くことも多い。この点は注意が必要だが、あくまで翻訳は翻訳である。原語(ないしは英語)に引きずられている部分があるかもしれないという点は留意しておくにしても、イロカノ語を学ぶという点ではさしあたって無視できることであろう。

 

 

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